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【駄作の理論】カルマ力の低迷

皆さん、こんにちは。

私もいよいよ齢30ということで一体何をしていたのか?
という垣根のようなものについて考えるようになった。

科学者でもなければ研究者でもない私はどこにでもいる何の極みにも達しなかった所謂ゴミであるが、
そのゴミもゴミなりに存在してきた世界を今一度整理し、少しメモしておきたいと思うようになった。

ちなみに最近思うのだが、自分を貶す行為は自分にとっては赦されるが人が自分を貶す、あるいは自分が人を貶す行為は非常に業が深いと思う今日この頃である。

なぜなら他人の出生から思想、情緒の隅々まで知ることは全く不可能であり、いかなる人間においてもその他人が持ちうる自己愛や自尊心、心の全てを内に顕現しなければその人を貶す行為はただの罵詈雑言であり、何の愛も無いただの言葉の羅列だからである。

そのような言葉の羅列は所謂呪いの類であり、自らの内にカルマを増大させ、病や不幸を招く元凶になるのみである。

さて、私はここ10年余り創作を面白おかしくやってきたが、ここ最近においてはアニメ業界、ノベル業界を始めとしてトンと面白い作品が世に出回らなくなった。

なぜか?

私はこの問題をここ数ヶ月間ずっと頭の片隅で考えていたが、どうもその理由はカルマにありそうだと結論付け始めていた。

【人は己のカルマ以外の話題について無意識に求めない】

ということである。

ここ最近の人々のカルマは千差万別になったように思う。
特に終戦後における人々のカルマは争いから解かれ、内なる幸福または内なるカルマにもっぱら焦点が定まり他人の幸福や世界の幸福については考えなくなった。

というのも、これもそれも全てアメリカが行った人というものに対する概念的変化における弊害である。

【人は助け合いを当たり前としなくなった】

ここ50年かそれくらいだろうか、人々は助け合いをやめた。

人を助けることは損にしかならないと日本人は心の底で思い始め、疲れ始め、諦め始めた。

私たちの世代は必ず人助けの前に一旦思考する。

それはその人を助けることで自分のマイナスを計算する行為である。

これは全てアメリカの洗脳に思う。

何か報復があるのではないか、騙されないか、損をしないか、相手は外人か?

全てが一瞬のうちに脳内を駆け巡っていく。

そうして人々は見て見ぬ振りをして本当に死んでいるような自他共に明確に迷惑と判断されたときだけ大抵の人はその人に救援を呼ぶ。

その段階になっても助けない人は多い。

きちんと助ける人がいたという美談はいくらでもあるが、実際はこっちがリアルだ。

何が彼らを取り巻いているのか?

カルマである。

私たちは既に実生活で他人に感情移入することをやめ、無意識のうちに自分は他人から見てどう見えるかということしか意識しないようになった。

それは例えば、お金が欲しいだとか、幸福が欲しいだとか、恋人が欲しいだとか、そういうつまらない欲求に起因している。

私は創作を行うにあたってこれらの人々の意識が作品を酷く無意味で無味乾燥なものにしていると思った。


作品はだいたいが文字か音による想像力に働きかけたものである。

であるのに対して、今の人々は想像力を使うことをやめている。

一例でいえば、人はまず愛を想起しない。

人の中にあって人は愛を想起したりしない。

それは後天的に身についた心の働きで子供のうちから笑顔を消して外面に壁を作る人間がいないように人は無意識でこの愛情からくる情緒を封印している。

わかりやすく一例を挙げよう。

例えば、あなたは名医であり、あなたにとって患者は愛すべき救うべき人々だ。

しかしながら、あなたは患者に感謝されることはない。ただの一度も。
何故なら彼らは自分が生きようが死のうが別にどうだって良いのだ。

それどころか、来る日も来る日も人々は当たり前のように診察を受け、治癒され、そして時にはあなたがほんのわずかに遅れただけで罵倒して去って行く。
中にはあなたが治療を行ったことに対してどうして生き長らえさせたのかと文句を言う人までいた。

あなたはここで選択を迫られる。

1つは医者をやめるという選択だ。
あなたの心身にはもはや患者に対する何の感情もない。
人を救うという行為が自己満足でしかないことに気がついた。あなた自身に何か足りないものがあるが、あなたはそれを見つけることは叶わない。
あなたの代わりはいくらでもいるという事実だけが純然と存在する。

2つは患者を愛さないで医療行為を続ける選択である。
あなたは自らにしかできないことと自分を騙し、やりがいのない空しい人生を送る決意をする。
そして隣ではそれを受け入れている者が大勢いる。
間違いではないという思いはあるが、やはりあなたは何も得られない確信を胸の内に抱えることになる。

これが所謂、究極の選択である。

私はこのようなことが現実の社会に溢れていると思う。

誰もが「なぜ?」と思っている。

自分はこれだけ頑張っている、これだけ懸命に生きているのに何故何も得られないのか?

違う、全然違う。

私はこの得ようという心が間違っていると断言できる。

そしてこれこそが、全ての創作作品を駄作に貶める根元だと思っている。

人々は作品を手に取るとき、こう考える。

「この作品を読めば私は感動を手にする」

それは、人々が無意識に求めるファクターであり、心の渇望だ。

しかし、ハリウッドを始め、ジブリ、多くの作品はもう感動を提供していない。

何故なら人々の意識の深層に「壁」が存在し始めたからである。

クリエイターはまずこの事実に気がつくべきだ。

人を感動させようとする前にまず自分が感動していないことに気がつかなければならない。

我々は究極の選択の中にあって外側しか見ていない。
つまり、患者を救う術はあるが何の施術を行おうとも患者があなたに感謝することはないということである。

あなたはそれでもクリエイターを続けるのか……

人はまず自らに感動するところから始めなければならない。
そのためにはあらゆる感覚、感情、情緒に機敏になるということだ。
患者とて、同じである。
痛みがなければ人はその病に対して何の辛さも思い出さない。

痛みに鈍感な人々は皆患者である。

私たちはアメリカにこう教えられた、心の痛みに耐えられないことは恥ずべきことだと。

人の強さとは弱みを消すことだという刷り込みがある。

心を消すことが尊い人間のような生き方だと教育された。
その代わりにただ本能に従って生きればそれでいいのだと教育している。

それは今の社会を如実に物語っている。

結果的に日本人は外人を自国へ招いている。さらなるゴミ因子の生産である。

自然の摂理を1ついえば、
どんな自然の生き物もぐちゃぐちゃに混ぜればそれは劣化でしかない。

何の考えもなしに交配を進めてよいものが出来ようか? ということである。

食べ物もいい加減に混ぜ合わせればただの残飯である。

そして雑種はどこまでいっても雑種のままだ。

それでもやはり、どこかで人々の無意識は破滅よりは少し遠いところにあるような気がするが。

by yunolite | 2018-05-17 07:30